こんにちは。野村證券リテール営業に8年従事していた管理人です。
2020年現在、野村證券の厳しい話はすっかり聞かなくなりました。
当時の在籍者として実感していましたが、世の中に「働き方改革」が浸透し始めた2016年頃から野村證券リテール営業において早出・残業がなくなりました。
聞いた話ですが今の就活生にとって野村證券は、

早出・残業なしで、高給が貰えるお買い得企業!
なんて評価もあるとかないとか。時代とは変わるものですね。
私の時代がおそらく、厳しい時代の最後世代かなと思います。
そんな時代の新人がどのような1日を過ごしていたか書きました。
聞いてはいたけどやっぱりキツい…平日2時間眠る日々
平日で一番多かったスケジュールはこんな感じです。
4:00:起床、日経新聞の読み込み
5:45:テレビ東京「モーニングサテライト」を見ながら身支度
6:00:寮出発
6:20:支店到着
6:30:すでに支店長室で資料類を読んでいる支店長に挨拶、昨日の営業成果報告
6:50:支店全員の机上を専用タオルで拭き掃除
7:00~7:20:朝の会議で使用する資料の作成と印刷と配布
7:20~7:30:ホワイトボード消し
7:30~8:00:地獄の日経新聞読み合わせ
8:00~8:20:課長以上が会議の間、巻紙と封筒の宛先を筆ペンで記入する
8:30:全体朝礼
8:45:所属している課の打ち合わせ
8:50:営業活動開始
中略
20:00:支店帰社
20:00~21:00:営業日報作成とイントラへの報告
21:00~22:00:イントラからの励ましのお言葉
22:00:退社
22:30:寮帰宅
22:30~22:50:晩御飯
23:00~:巻紙×1通につき30分、大体3通
24:30~0:00:風呂
0:00~:イントラから頂いた課題、大体は新登場金融商品の理解とセールストークの作成
2:00:就寝
2時寝4時起きの毎日です。
私が就職活動をしていた2010年は「野村證券=強烈にキツい」が就活生の常識でした。
それを百も承知のうえで入社しましたが、やはりキツかったですね。
私が住んでいた寮では複数支店の若手社員が生活しており、辞めた人、失踪した人、自ら人生を終わらそうとした人、色々な事案がありました。
正直私も何度もそちら側に行きそうでした。結果何とか踏みとどまる事が出来たのは本当に運が良かったです。
2年目からは日経新聞の読み込み速度が上がったおかげで5時に起きても間に合うようになり3時間睡眠を確保出来るようになりました。
日経新聞の読み込み

当時は全支店で行われていました。
1年目の新人が日経新聞を読み、気になった記事を発表し、金融商品の販売促進となるセールストークに繋げるという伝統行事です。
野村證券ではOJTで新人を育てる方式で、新人の育成担当者はイントラ(インストラクターの略)と呼ばれます。
新人はイントラに毎日の新聞記事から気になった記事を発表するという事になります。
しかし、イントラによってやり方は千差万別です。
私のイントラはルーレット方式を採用していました。
新人が自分で記事を選ぶのではなく、イントラがランダムに指名した記事をその場で要約し、金融商品のセールストークに繋げるという恐ろしい方式でした。。
1年目の新人が上手く出来るわけもなく、、詰め(叱咤激励)を頂く事になります。
その為、毎日1面から『私の履歴書』まで全ての記事を読み、出社する必要がありました。
どうしても2時間近くかかるんですね。4時に起きて新聞を読まないと間に合いませんでした。
毎朝の支店長への結果報告

新聞の読み合わせ以上にキツかったのは、出社後支店長室へ挨拶に行く事です。
そこで昨日の営業成果を報告する事になりますが、当時の私は毎日継続して新規顧客獲得が出来るわけでもなく、金融商品の買い付けを頂く事が出来るわけでもありませんでした。
お察しの通り、詰め(叱咤激励)を頂きます。画像は管理人が描いた参考です。
実物の恐ろしさは私の画力では表現できません。
後から知る話ですが当時の支店長は全国的に厳しい詰めで名を馳せた方でした。
ありがたい事に1年目から野村證券の中でも最高クラスの詰めを毎日頂いていたおかげで耐性が付くことになります。
何も考えない幸せ、朝の雑用
7:00~7:30は上席者の会議用資料の作成、8:00~8:20は後述の巻紙の宛名書きで一人になれる貴重な時間でした。
たった十数分ですが、誰にも干渉されず脳みその回転を止めてボーっと出来る(手は動いている)事の幸せを噛みしめる事が出来ます。ありがたかったですね。
8:50~20:00までは外回りタイム
ここはドラマが多過ぎる時間帯なので、またどこかで別途記載します。
毎日12:00と17:00のイントラへの中間報告が精神的負担でした。
特に17:00の時は、
「この時間までに成果を出さないせいで、会社は君に残業代を払わないといけない事をよく考えましょう」(意訳)
と言われる事も多く、この言葉は嫌でしたね。
ただ、今となっては正しいなとも思います。業種職種問わず全会社員はこの意識を持つべきだとは思います。伝え方の問題はあるかもしれませんが。
20:00帰社、目の前の扉を開けたくなさ過ぎて吐き気を催す時間

外回りが終わると、成果報告と事務処理の為支店へ戻ります。
20:00というのは、社会通念上20時~8時の営業行為は相応しくないとされているからです。
端的に言えば1日の強制終了です。
どれだけ成果があがっていなくても帰らねばなりません。
基本的に「新規口座開設により、1,000万円以上の、支店で取り組んでいる金融商品」を買って頂く以外は褒められる事はありえません。
下線部を全て満たしている事がポイントです。全て満たせない場合は詰められます。
1年目で「これでも駄目か」と強く印象付いているのは、「新規口座開設で300万円分の自分が良いと思った投資信託」や「既存のお客様のタンス預金から3,000万円分の個人向け国債」を買って頂いた日も詰められました。
※あくまでも当時の話です。今なら多分とても褒められるので気にしないでください!笑
そんなわけですから、詰められると分かっている扉を開くというのはとても勇気の要る事でした。
詰められ過ぎて2年目以降はほぼ何も感じなくなるのですが、1年目はまだ感情が豊かなので詰めが堪えるんですね。
当時の吐き気は未だに覚えています。
営業成果報告とイントラからの励ましのお言葉

吐き気をこらえて支店に戻ると、成果報告です。
まずは1日の結論(金銭的成果)を口頭で報告します。
「何の成果も…得られませんでした!」
と発言する勇気。調査兵団の気持ちがよく分かります。
その後、定性的成果を日誌に書き報告します。
定性的成果とは、「買付はないけど新規口座開設が出来た」とか「見込み客が何人作れた」といった成果です。
金銭が伴わない限り、数値が絡んでも定量的成果とは呼ばないのです。
ここは世間一般の定量定性の定義と違うので注意が必要です。
そして日誌(紙面)を持って詳細報告をし、励ましのお言葉を頂きます。
2011年に於いて営業日誌が紙面である点を気にしないで下さい。
この後も巻紙という手書き文化の権化が登場します。基本的に昔の野村證券は手書き文化なのです。
9割が根性論精神論ですが、1割くらいの比率で頂ける営業テクニックをしっかりと覚え、「明日は今日より早く帰るぞ」と自分を鼓舞するのでした。
ヘトヘトで帰宅しても1日はまだ終わらない、巻紙と課題

当時までの野村證券の新人は、必ず巻紙と呼ばれる手紙を書くことが日課でした。
あまりにも有名で「野村證券 巻紙」で調べるとたくさん画像や記事が出てきます。
この記事のトップ画像は、部屋の片隅にあった当時の余りの巻紙を使用しています。
巻紙はステーショナリーセットが充実した本屋で買えます。
支店によっては備品として置いてあるところもあったようですが、私の所属支店ではなかったので自分で買っていました。
この巻紙を使用して、新しい見込み客の方や、お客様になって頂きたい各地域の名士の方々に筆で手書きの手紙を書きます。
今でこそ15分もあればそれなりの手紙は書けますが、当時は慣れておらず、どれだけ集中して書いても1通30分はかかっていました。
毎朝、イントラに3通見せて、内容に問題がないか検閲して頂いた後に郵送します。
したがって3通に満たない巻紙を持って出社する事はありえないので、どれだけ眠かろうが毎晩必死に3通書きます。
この点はまだ恵まれている方で、支店やイントラによっては平日毎日5通といったノルマを課されている同期もいました。本当に3通で良かったと痛感します。
巻紙が終わると、手に付いた墨を落とす意味と気分転換の意味で風呂に入ります。
長く入ると睡眠時間が削られるので、サッと湯通し程度です。
ただ、営業マンは清潔感が命なので洗髪洗体はしっかり念入りに行います。
その後、イントラからの課題に取り組みます。
多かったのは新しく支店で取り扱う金融商品の内容を勉強し、セールストークを練り、翌朝の打ち合わせのタイミングで発表するという課題です。
今でこそ各種金融商品を端的に説明できるようになりましたが、当時は全く意味不明でした。
家族親族友人で投資運用の話を聞いた事がない環境で育ってきたのでそもそも金融商品の意味が理解できる土台すらなかった若者でした。
そんな若者が「為替ヘッジ」「NDF取引」「プレミアム戦略」「ロングショート戦略」等をお客様にスラスラ説明出来るレベルの理解に辿り着くまで幾何の時間がかかったか覚えてもいないです。
毎日2時間睡眠、でも実はもっと眠れた。足りなかったのは睡眠ではなく自分の努力
振り返ると、睡眠時間が2時間しか取れなかった要因は自分の知識不足です。
朝の日経新聞の読み込み、夜の巻紙、金融商品の勉強
知識があればもっと時間短縮出来ました。
勿論、その甲斐あって2年目、3年目と睡眠時間は増えていき、辞める直前では毎日5時間は眠れていました。
他の記事で記載した通り、辞める1年半前くらいから毎日米国公認会計士(USCPA)の勉強をしていたので5時間です。
勉強をしていなかった4年目~6年目では多い時は7時間睡眠が出来る日も多々ありました。
そしてこれは所感ですが、当時辞めずに残っていた野村マンは皆この章のタイトルのような考え方が自然に出来たいた人が大半だと思います。
悪いことは全て自分の落ち度、良いことは運が良かっただけ
私はこの考え方を大切にしています。今でも常にそうであろうと気を付けて生きています。
当時という書き方をしたのは、8年目で辞める直前には、こうした考え方が出来る野村マンが私の周囲で激減していたからです。
寂しい事ですね。
最強の営業軍団として有名だった時代の名残を体験できただけありがたい事ではありますが。
1年目は本当に様々な勉強をさせて頂きました。
休日編と、外回り編も別途記事にします。
今振り返っても、当時の日々は本当に勉強させて頂きました。
戻りたいかと問われたら…絶対に戻りたくないです。笑
それでは次回の記事でお会いしましょう。